ABOUT ME:『向いてない私』が出来上がるまで。
(フロム愛37)
母性愛の二つの側面は、聖書の象徴にも表現されている。
約束の地(大地はつねに母の象徴)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。
乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。
蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。
(フロム愛38)
たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数で、そのためには母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない。
エーリッヒフロム 『愛するということ』より
❝自分は親にはならない❞という信念で生きてきました。
この世に生を受けることの素晴らしさ、生きることの甘美さを伝えることなど出来るだろうか。
私は蜜を与えられる親になる自信はなかったのです。
この世に堕とされた苦しみ。
生きることに執着を持てない悲しみ。
いつも同じ場所で足をすくわれはまり込む罠。
自分の存在価値すら疑わしく、地に足のつかないような感覚をあまりに長く味わってきたように思います。
感情レベルは母親から伝染しやすい。
自分のように一定の尺度を保てない母親の元では幸せになれないのではないか。
私はとても怖かったのです。
子どもの頃から心理学やら哲学やら宗教学やらの本を読みあさりました。
なぜ自分はこんなに生きづらいのかという原因に興味があり、またどうしたらここから抜け出せるのかという方法にも関心を持っていました。
こんなに不安定な出来損ないではありますが、探求心と行動力はわずかに持ち合わせていたのです。
中学、高校とミッションスクールに在学していたころ、同じ感性の波長を持ち合わせた親友と出会いました。
交換日記を通し、お互い書きなぶることで感情を整理、浄化させていくことを試みていました。
その頃はまだ粗削りで、客観視することも出来ていないので、今読み返せばあまりにもストレートな被害者意識にまみれた代物ですが…。
その瞬間を不器用に、でも懸命に生きている二人が今も鮮明に蘇ってきます。
しかし彼女は自分の命を削って復讐する道を選びました。
復讐は直接相手に危害を負わせるばかりではありません。
自分自身が不幸になることで、相手の人生に重い十字架を負わせようとする巧妙な企みを含みます。
自分が毒を飲んで相手を傷つくのを待っているようなもの。
誰も幸せにはなれないのですが…。
自殺未遂を繰り返す母親を見てきた彼女にとっては、あまりにも簡単に引き出せる選択でした。
自分の人生を振り回す母親に、自分を捨てた父親に、自分を見限った恋人に、自らの命を削り不幸になることで、どこか鼻を明かしてやったような、やってやったぞという高揚感にも似た感情をその瞬間持ち合わせていたようにも想像します。
彼女は普段から自分の命を切り札に、人の感情を試すようなことはよくありましたが、最後は本当にやってのけてしまいました。
もう二度と取り戻すことのできない、悲しい選択です。
子どもの頃から自分の存在をディスカウントされて育てば、反応が歪みます。
❝おまえは価値がない、存在するな❞という禁止令。
体に侵食していくがん細胞のような、降り注ぐ呪いのようなような影響力。
母親の歪んだ刷り込みを心理学では『魔女の呪い』とも表現します。
それを一度感じ取ってしまった以上、それが解けない限り自殺願望からは解放されないのでしょう。
彼女の葬儀は教会で行われ、聖書の朗読や聖歌斉唱など、終始透き通るような清らかな時間でした。
つつましい吐息の音ばかりが川のように流れていくような…。
それでいて、クリスチャンである彼女の信仰すら呪いを打ち砕けなかった虚無感にも襲われました。
その時私は、このままでは自分もいつか彼女の二の舞になるのではないかという予感が走りました。
しかし今、私のお腹には別の命が育っています。
簡単には死ねなくなりました。
私は沢山学び続け、自分とも向き合い、人との出会いの中で引き挙げてもらって、今もこうして生きています。
自身の愛着障害のせいで随分と回り道もしながら、ねじれた恋愛に足をすくわれながらも、今は誠実で安定感のある人と家庭を築いています。
慣れ親しんだ古い信念を手放す努力をし、新たなスペックを更新している最中なのです。
行動しなければ、一歩を踏み出さなければ、人は現状維持のシステムに容易に組み込まれていきます。
最初に注ぐエネルギーには不安が伴い、また変化や成長には痛みが伴います。
しかしその痛みを知っているからこそ、セラピスト、心理カウンセラーとしてここまでやってくることも出来たし、また母親としての人生をスタートさせる今、『この子には間に合った』と思えるのです。
もちろん、今でも不安は心の奥でさざ波を立て続けます。
親への感謝が沸き立つかと思えば、過去に与えられた肉体的、精神的な傷ばかり疼いて自分自身にガッカリすることもあります。
母ちゃんをトコトンやってみる!と腹はくくりましたが、完璧は目指しません。
完璧を目指せば、仕事においても育児においても自分がどこか『偽物』のような罪悪感にさいなまれることになります。
心は常に両極を行き来しながらバランスを取っている。
駄目な自分も受け入れながら、折り合いをつけて付き合っていくしかありません。
どこへ行っても自分自身は道連れなのですから…。
あなたがもし、何かしらの虐待などを受けた経験を持ち、自分の子どもに対してその影響や連鎖を気に病んでいるとしても大丈夫!
未来へのベクトルは必ず変えることが出来ます。
実際、虐待の連鎖は現在では統計学的に否定されていますし、そのカテゴリーに自分を当てはめて思い込みに悩む必要はありません。
過去が未来を制約することなどないのです。
私も自分に言い聞かせています。
自分で自分の邪魔をするのはもうやめよう。
幸せになることを許可しましょう。
『愛するということ』エーリッヒ・フロム
愛は技術であり、絶え間ない努力であり、学びである。
愛は受動的な感情ではない。
能動的な働きかけである。